古来より人は、自らではどうにもならない自然の力や、理解の及ばない未知との境界に対して、この世ならざるものを想像してきた。ときに恐れ、ときに敬い、そしてときに親しみさえ抱きながら。
子どものころ、暗闇の向こうに「何か」がひそんでいる気がして、なかなか眠れなかった……そのような記憶をもつ人は、きっと少なくないであろう。けれど大人になるにつれ、私たちはそうした感覚を「ただの気のせい」と片づけるようになる。見えないものを想像する力や、形にならないものの気配を感じ取る心を、少しずつどこかに置いてきてしまうのかもしれない。

さて、なぜこのような話題をあげているのかというと、2026年3月27日から29日にかけ、九州芸文館で「妖怪百鬼夜行展 ~命のつながり・想像の力~」が開催される、という話を耳にし、立ち寄ってきたからである。この展示を手がけるのは、講談社賞や藤子不二雄賞など数々の受賞歴をもつ画家のYONO氏(@yono_1222)だ。
会場に入ってまず、壁面をぐるりと囲むように構成された「百鬼夜行」の絵図に圧倒される。その数およそ100枚。描かれた妖怪や神仏たちは1,000体を超える。
展示は「起承転結」の流れで構成されており、まず「起」では大地割り(鐘をかぶった妖怪)が大地を割り、その裂け目から異形たちがぞろぞろと現れてくる……まさに「とてつもない何かがはじまってしまった瞬間」が、そこにある。

物語はそこから「承」「転」へと進むのだが、その先の展開が細かく説明されているわけではない。それぞれの妖怪や神仏が、何を思い、どこへ向かって足を進めているのか。怒っているのか、祈っているのか、あるいは誰かを守ろうとしているのか。見る側が自由に想像を差し込める「余白」が、この展示にはたっぷりと残されている。
気づけばこちらも、単なる「鑑賞者」というより、妖怪や神仏たちの後ろをそっとついていく「行列の一員」のような気分になってくる。一枚、また一枚を眺めているうちに、自分の中にまだ残っていた子ども心のようなものが、少しずつ目を覚ましていく。

妖怪と聞くと、どうしても「怖いもの」「不吉なもの」を思い浮かべがちではなかろうか。しかし、YONO氏が描く妖怪や神仏たちは、どこか表情がやさしい。もちろん、鋭い目をしたものもいれば、異形で迫力のあるものもいる。けれど、それがただ恐ろしいだけでは終わらない。むしろその姿形の奥に、哀しみや祈り、ユーモアやぬくもりのようなものがにじんで見えるのだ。
「異形」であることと、「穢れ」であることは、まったく別なのだ……そんな、当たり前だけれど忘れがちな感覚を、絵の前であらためて思い出させられる。自らが理解できないものを、一方的に遠ざけたり怖がったりするのではなく、いったん想像してみること。その存在に思いを馳せてみること。そうした営みのなかから、かつての人々は妖怪や神仏を生み出してきたのかもしれない。

会場をひと通り巡ってふと気づく。「結」はどこにあるのだろうか、と。聞けば、今回の展示は「転」までなのだという。最終章となる「結」では、神仏が中心に描かれていく予定とのこと。今回の展示だけでも十分にその世界観へと引き込まれたが、だからこそ、まだ見ぬ「結」がどう着地するのかが気になって仕方がない。
重ねて言うが、大人になると目に見えないものを想像する力は、つい「役に立たないもの」として後回しにされがちだ。けれども本当は、その力こそが、世界を少し豊かに見せてくれるのではないだろうか。忘れかけていたその大切な感覚を、もう一度呼び戻してくれるような、静かな熱気をもったひとときであった。
筆者:堀本 一徳(FCP 編集長)





